ネガティブキャンペーン
たまに陥る。
鬱がひどくなってしまうと開催されるネガティブキャンペーン。
このキャンペーン開催中は、まーひどい。
人に会いたくないのは当たり前。
ベッドから起きられず歩数計は2日で3ケタにも到達せず。
お風呂にも入らず、顔も洗わず。
かろうじて歯磨きだけはするけど鏡なんて見もしない。
子供のご飯もお金で解決。
子供たちはこれを病気だとは思っていないから心配なんてしてくれないし、それどころか、ただ怠け者スイッチが入った為体なふざけた母親だと言わんばかりに寄り付かない。
寄り付かないのは正解。
触らぬ神に祟りなし。
大人になるってなんだ?
鬱だから大人になれないとは言わない。
大人になれないのは自分のせいだと自覚はある。
「大人じゃない・・・」と一番自己嫌悪に陥るのは子供と喧嘩した後。
言わなきゃいいこと言ったり、子供より子供な言い訳してみたり、泣いたふりしてみたり。感情のコントロールができなくなる域までいくと、もっとひどい。
子供たちのほうが正論を発し始める。
この子供のほうが正論を発するときなんてホントに自分がボロ雑巾以下に感じる。でもその気持ちはたぶん隠せてる。
社会生活も、そりゃしてきている。
それなりに立場がある役職もこなしてきた。
でも、それが・・・自分のキャパ以上なんだろうな~と感じる。
こんなコドモ大人が大人の上に立ち続けることなんて無理に等しい。
それが鬱マシマシにさせてきたんじゃないかと自分に都合よく分析している。
世の中には、かっこよく歳をとっている人は沢山いて、そういう人をメディアで見ると羨ましくもあり、心のどこかで「この人だって家では闇があるんじゃないか?」と疑いの眼差しで見たり。
でも基本、キャンペーン中はそういう大人は眩しすぎて見れない。
子供の時の方が大人だった説
大人が大勢いる環境の中で育ったせいか、早熟で中学の頃は同級生の男女より大人びた考えだったと思う。そのせいで上から目線のような物言いでよく喧嘩した。
でもかなりポジティブでもあり、自分に正直で人生に期待も持っていた。
(今だって人生に期待が無いわけではない)
明るい未来に胸をふくらます、ごく一般的な昭和の乙女であったはず。
社交的で学校に知らない子がいないくらい男女の隔てなく友達が多く休日は、ほぼ友達と外出。
帰宅すれば家事を手伝い、知らない大人や近所の大人たちにも愛想ができた。
家では「女は男を立てる!」と仕込まれ父親には逆らったことがなかった。
夢と希望を抱えている常識的なオトナ子供であった。
これは今でも仲良くしている幼馴染に
「当時の手紙を読み返したら、あなたの考えが大人で驚いたんだよ。今読んでる自分と同じ目の高さで考えてたんだね」
と告白されたことがあるくらい。
勿論自分では自覚は無かったけど、子供のときのほうが大人びていたんだと思う。感情のコントロールもできてた気がするし。
キャンペーンは切り替えられる日は来る
ネガティブキャンペーンは始まる前触れも無いし、自分で期間を決めている訳でもないし、いつまで続いて、いつ終わるかわからず不安に潰されそうになる。
でも、
ネガティブキャンペーンはいつかは終わる。
終わるだけでなく、ポジティブキャンペーンに切り替わることもある。
それが美味しいお料理なのか、嬉しい一言なのか、気持ちにハマる歌なのか、美しいと感じる景色なのか、綺麗な空気なのか・・・きかっけは不明だけど、ある瞬間「あ。キャンペーン終わったな。ふっきれたんだな。」とアッサリ終わる。
自分が一番ビックリするほど、アッサリ終わる。
体も軽くなってベッドから無意識に起き上がり、家の片付けを始めてみたり、長湯してみたり、鏡に向かって顔面ストレッチをしてみたり、子供にやさしい言葉をかけてみたり、街の空気を吸いに出かけてみたり。
一気に心がスッキリして足取り軽く、鼻歌まで出る始末。
こうなるとこっちのもん。
私としてはこのポジティブキャンペーンの間に、いかに理想の大人に近づくか、その努力ができるかに掛かっている気がしていて、毎日を大切に人生を少しでも豊かにと空を仰ぐ癖をつけ過ごす。
今日も、ポジティブキャンペーン期間中。
自分の闇を吐き出し、さらに心が軽くなった。気がする。
このアウトプット作業をシラフでできたことは大きな収穫な気もする。
(※決してアル中とかでは無い)
親として、娘としてカッコつけたいから、人にはみっともなくてなかなか言葉にできないし。
でも少し吐き出せた。
次のネガティブキャンペーンがいつ来るのか不明だけど、その時はその時で。
とりあえず今日のところは
自己満足。
スッキリした♪